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柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きがついている。
明治二十八年の作である。
二句一章の句である(「柿食えば / 鐘が鳴るなり法隆寺」)。
「柿」、「鐘」、「法隆寺」という意外な組み合わせの妙がある。

従来から、この俳句には諸説があるが、一般的には、単に柿好きの正岡子規が、法隆寺と柿をどうしても結び付けたくて作った俳句と考えられている。この俳句から「已然形+ば」の解釈を考え直すべきという学者もいるようだが、そもそも正岡子規は近現代の人なので、古典文法をここで覆すというのもおかしなものである。
話を戻すが、したがって、鑑賞としては、単純に柿を食べることと、法隆寺の鐘を聞くことを同時に行っている作者情景を感じながら読むと良い。

私は、たそがれ時に染まる法隆寺と、柿の色のコントラストかなと思いました。
鐘の音と情景に枯れた味わいがあるというか。。。。。。。。。
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赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり

話者から見えるのは、赤蜻蛉と空と筑波山である。話者には見えないが俳句に出てくるものがある。それは「雲」だ。雲に視点を置いてみる。なぜ見えないことが分かるのだろうか。それは助詞の存在である。
「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」では、助詞が雲もの「も」である。「も」を入れることにより雲と他の物がないと言う意味になる。
 もし、助詞が「は」だったら、雲だけがないと言う意味になってしまうのである。

 次に注目すべきことは空である。空に視点を置いてみる。青空か夕焼け空か。私は青空だと考える。なぜならば、赤蜻蛉と青空では対比しているからである。もし夕焼けだとしたら、夕焼けと赤蜻蛉では対比していないからである。
 そして、もう一つこの俳句に欠かせない言葉がある。それは「なかりけり」の「けり」である。
「けり」は過去を表したり、詠嘆を表したりする。

 この俳句の場合は、詠嘆を表していることがわかる。 この分析結果を解釈すると…

 秋晴れの下、赤蜻蛉たちが母なる筑波山に見守られながら飛んでいる。それは、青い空に浮かび上がる赤の天使と言っても過言ではない。

 ああ、美しき自然の中に生きる生命のいとなみの素晴らしさよ。

若鮎の二手になりて上りけり

若鮎が春の季語。「鮎」は夏、「下り鮎」は秋の季語。
鮎は晩秋に産卵し、落ち鮎となって一生を終わります。川で孵化した稚魚は、一度海に下って育ち、若鮎と呼ばれるようになると、群をつくって母なる川を遡上します。
この句によまれた光景は、川の合流点にまでたどりついた鮎の群が、二手に別れてさらに上流に上ってゆく様子を、鮎の活発な性質を見事に捕らえている上に、最後の「けり」ですっぱり切って見せた作者の心意気の素晴らしさに打たれます。
写生句はこのようにして作るという、原点のような作品です。

雪残る頂き一つ国境

 国境は、この句のみからは、どこの場所とも特定しがたいが、それが、却ってどこだろうかと知りたくなる好奇心を湧かせるから不思議だ。国境に屹立して見える雪の残る頂。ここより他国に入るんだという思いで振り仰ぐと、雪の頂が燦然と輝いて見えるが、国境のさびしさも隠しえない。
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